手入れの良さに嘆息…吉良邸跡-本所松坂町公園に光る地元愛と心意気
本所松坂町公園。
公園と名がついていますが、ここで遊ぶ子供はいません。
遊んじゃダメってわけでもないと思いますが、遊び場としての公園ではないです。
ここは、赤穂浪士討ち入りの場所。吉良上野介の屋敷の跡地なのです。
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吉良上野介が本所松坂町に暮らしたのは1年余り
吉良上野介が長く暮らしていたのは、ここではなく鍜治橋、今の東京駅近く、八重洲のあたりです。
吉良がこの土地を与えられたのは、元禄14年9月のことで、赤穂浪士の討ち入りは、元禄15年12月です。
吉良がここに暮らしたのは、わずか1年あまりの期間でした。
鍛冶橋からの転居は、幕府の命令によるものです。
赤穂浪士が仇討の計画をしていることが江戸の噂になると、鍛冶橋近辺に暮らすほかの大名たちから不安の声があがります。
幕府はこれに応え、吉良に転出を命じたのでした。
本所松坂町公園に置いてあるパンフレットによると、この転居により赤穂浪士の討ち入りはずっとやりやすくなったと、当時の人々が話していたそうです。
江戸城に近い鍛冶橋よりも、隅田川を渡った本所松坂町は警備も薄かったでしょうから、確かにその通りだったのだろうなと感じます。
吉良が幕府に見捨てられたようにも見えます。
討ち入りの時、上野介は61歳だったそうで、平均寿命の短い当時の感覚ではもう老人だったでしょう。
仇討におびえて暮らす晩年は、辛いものだったことでしょう。
地元町会の尽力で残された旧跡吉良邸跡
討ち入りの後、幕府に召し上げられ、その後は住宅地となっていたこの場所を、旧跡として残したのは、地元両国3丁目の町内会でした。
町会有志が、現在公園となっている土地を買い、それを当時の東京市に寄付するという形で、この史跡が現代に残ることになりました。
町内会のおっちゃんら、すごい。
今も公園内は清浄に整えられていて、慰霊碑には、いつでも新しい花とお茶が供えられています。
「吉良邸跡保存会」という組織があるようなので、その人たちが清掃やお供えをしているのだと思いますが、きっと近所の人たちで作っている会でしょう。
江戸っ子の地元愛と心意気がそこここに光る場所です。
吉良町甚句の展示も。
歴史ある町が今も密にコミュニケーションを取っている様子が分かります。
本所松坂町公園
当時の吉良邸は、それはそれは広いお屋敷でした。
約8400平方メートルあったそうで…
現在の公園は、ぐっと狭く、98平方メートルなので、当時の86分の1です。
こういう壁↓を「なまこ壁」と言うのですね。
公園は、なまこ壁に囲われています。
なまこ壁は、家の格の高さの証でもあったようです。
なまこ壁の展示資料
公園の中に入ると、このなまこ壁に資料が展示されています。
葛飾北斎が忠臣蔵を描いています。
墨田区のあちこちにある葛飾北斎の浮世絵ですが、ここにもあるとは!
この絵で往年のお屋敷の広さがなんとなく分かりますね。
こういうのって誰かに依頼されて描いたのかな?
北斎は、自身を吉良のボディガード小林平八郎の玄孫(やしゃご)だと話していたと言われています。
このため吉良邸跡地は、北斎ゆかりの場所として取り上げられることも多いのですが、真相は不明とのこと。
下は、松の廊下刃傷事件
香蝶楼豊国って、歌川豊国です。
歌川豊国の忠雄義臣録の中の錦絵の1枚。松の廊下ですね。
吉良上野介義央座像
公園に入って正面にあたる場所に、この座像があります。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)
義央は「よしなか」と読まれていましたが、最近の研究から「よしひさ」であろうと考えられているそうです。
いえ。今Wikipediaを見て知ったのですが。
考えてみると、昔の人の名前の読みって確認するの難しいですね。
誰かが呼んでいる音声の録音が残っているわけがなく、フリガナというものがあったのかどうかも…
吉良が50歳の時に自ら造らせた像が愛知の吉良家菩提寺である華厳寺に現存していて、その姿をそのまま再現したのが本所松坂町公園の座像だそうです。
愛知華厳寺にある像の写真が展示されていました。色以外は同じです。
華厳寺の座像は、吉良上野介本人が彩色したと書かれています。
座像の吉良は、優しそうに見えます。
この像は、愛知の像にそっくりなのであって、愛知の像が本人にそっくりなのかどうかは不明ですが。
吉良に関するエピソード(悪い話が多い)は、討ち入りの後に広まったものが多く、必ずしも事実と一致するわけではないとも言われています。
みしるし洗いの井戸
みしるし=首です。
四十七士が、吉良の首を洗ったとされる井戸。
井戸はここにあったってことですよね。
町内会有志の買った土地に井戸が残っていて、それを当時のように復元したのかな。
討ち入りで犠牲になった吉良家家臣の慰霊碑
討ち入りの夜、吉良家の家臣のうち20名が亡くなりました。
筆頭に小林平八郎の名があります。
吉良邸裏門跡
本所松坂町公園から少し歩いたところにある「吉良邸裏門跡」
跡と言っても、今はそれらしいものは何もありませんが、案内板が立っています。
吉良家家臣の死者は20名でしたが、死傷者数では38名でした。
対する赤穂浪士は、47人のうち2人が軽傷を負っただけだったそうです。
本所松坂町公園-吉良邸跡地へのアクセス
最寄り駅は、両国駅です。
JR両国駅の真南くらいの位置にあります。
JR両国駅からは
JRなら両国駅の東口に出て、JRの線路と直角に伸びる横綱横丁を進みます。
横綱横丁の通りの終点になる大通りが京葉道路です。
京葉道路を反対側に渡ったら、セブンイレブンの角を駅から離れる方向へ少し進むと右側になまこ壁が見えてきます。
そのなまこ壁が吉良邸跡地 本所松坂町公園です。
近くまで行くとのぼりが立っているのですぐ分かります。
都営大江戸線両国駅からは
A4出口がおすすめです。
A4から出ると見える通りは清澄通りです。駅を背にして右へ向かってください。
京葉道路に出るので「ライオン」という大きいサイズの服の店のほうへ渡って右へ。
セブンイレブンの角を左に曲がって少し歩くと右に見えるなまこ壁が吉良邸跡地です。
なまこ壁って、この壁のことです。
12月第2土曜日曜の義士祭
毎年12月の第2土曜と日曜に義士祭りが開催されています。
なぜ忠臣蔵の12月14日じゃないのかって…その日は泉岳寺のほうのお祭りだから…じゃないですかね。
品川の泉岳寺には、浅野内匠頭と赤穂浪士のお墓があります。
討ち入りの夜、四十七士は吉良の首を掲げて両国から泉岳寺まで歩き、浅野内匠頭の墓前で仇討を遂げたことを報告したのです。
その泉岳寺が12月14日に義士祭を開いているので、両国では、12月第2土日曜日にしているのかなと。
本所松坂町でのお祭りは、元禄市と一緒に開かれ、同じ日に吉良祭というお祭りも一緒に行われます。