本所南割下水と北割下水の場所と用途
かの葛飾北斎の生まれた家は、本所割下水にあったと言われています。
「本所」は、墨田区の南側を指す昔の地名ですが、「割下水」は、あまりなじみのない言葉です。
割下水は江戸時代の排水路
読みは「わりげすい」です。
江戸時代初期、本所辺りは田んぼばかりの場所でした。
明暦の大火(1657年) の後、両国橋が架けられ、隅田川の東側の開発が始まって宅地化が進みますが、地面は湿地のようで水はけが悪い土地だったそうです。
そこで元々田んぼの用水路だった溝を改造して割下水としました。
南割下水は今の北斎通り、北割下水は今の春日通りを通る水路で、本所割下水と呼ばれるのは南割下水を指している模様。
生活排水をそこへ捨てることはなく、流れる水は汚くはなかったようです。
明治初期に春日通りに住んでいた三遊亭円朝は、北割下水の水を自宅の池に引き入れていたというくらい。
意外に幅のあった割下水
これ↓が、本所割下水の写真です。
清澄通りと京葉道路の交差点近くにある東京東信用金庫さんの外壁に展示されている資料を撮ったものです。
「関東大震災(1923年)以前の本所割下水」とあります。
これだともう溝とは呼べません。見た目は川です。
ミツカン水の文化センターのページによると、3.6メートルくらいの幅があったとか。
割下水と呼ぶ、水はけのために造られた排水路もありました。これは道路の真ん中にあって、幅は2間(3.6m)ほど。明暦の大火のあとに江戸が拡張された折りに、本所、深川地域が開発されますが、本所は田地だった所なので土地が湿っている。その水はけをよくするために、割下水を造りました。
とてもまたいで渡れる幅ではありませんが、北割下水には三つ、南割下水には七つの橋が架けられていたそうです。
詳細は「街道をゆく本所深川散歩」司馬遼太郎著に
徳川幕府の治水事業
これらの水路は、隅田川へ流れ込んでいたものと思い込んでいましたが、ミツカンの同じページに当時の川と水路の略図が出ていました。
これによると、北割下水、南割下水ともに隅田川にはジョイントしていません。
南割下水は、今の江戸東京博物館、すみだ北斎美術館の辺りが出発点になっていて、東の横十間川につながっています。
横十間川は結局隅田川の下流に注ぐのですが、割下水は東をぐるーっと回ってから墨田川にたどり着いていたのですね。
横十間川も明暦の大火後に造られた運河です。
東京は長雨、大雨、台風と雨被害を受けやすい気候の土地なので、治水事業が肝要だったのでしょう。
時代小説に生きる割下水
割下水が暗渠(あんきょ)になって姿を消し、かつては南割下水通りと呼ばれていた道路が、「北斎通り」と呼ばれるようになり…
「割下水」という言葉もあまり聞かれなくなりましたが、「鬼平犯科帳」など時代小説には時々登場します。
鬼平犯科帳では1巻「本所・桜屋敷」に出てきます。
本所の津軽越中様の裏通りから南割下水にかかろうというそこの曲がり角で、いきなりばったりと出くわしたものですから、もろにその顔と顔を。
ですから、へえ。梅吉の人相書きそっくりの顔をしっかりと見届けました。
「鬼平犯科帳」1巻「本所・桜屋敷」池波正太郎
だとか。
凶悪な盗賊小川屋梅吉が目撃されたとして長谷川平蔵の赴く場所は、津軽屋敷から南割下水へ向かったところというので、今の北斎美術館から美術館前の公園あたりだったのだろうなと分かります。
この辺↓だなと。