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三ッ目から始まる奇異-本所の一ツ目通り二ツ目通りはどこ行った

2021年12月2日

私は本所生まれではなく、引っ越してきたばかりのころはこの辺りの歴史を全然知りませんでした。

なので三ツ目通り四ツ目通りという名前がすごく不思議でした。

その名称が不思議なのではなく、なぜ三番目から始めるの?ってことです。

何をどこから数えて三つ目四つ目なのさ

竪川たてかわに架かる橋を西から数えて三つ目、四つ目ってことなのだそうです。

竪川

竪川は旧中川から隅田川へ流れる人工河川で、川が作られたのは1659年、徳川家綱の時代です。

隅田川の東側の開発が進んだのも1657年の両国橋架橋後のことなので、当時、運河を作って橋を架け、道路を整備する事業が同時に進んでいたのでしょう。

現在の都営新宿線とJR総武線の間を両線と平行に流れる竪川は、江戸城に向かって東西に流れる川だから竪(たて)川なのだそう。

地図は北が上という現代の常識からすると東西は横のように感じられますが、江戸の人々の感覚では縦横が逆です。

「竪川」は「縦の川」

そう書いていながら、ずっと「堅川」と誤字してました(恥)正しくは「竪川」。竪琴の竪です。

親切な方にご指摘いただきました。ありがとうございました。

堅川と一の橋

今は大横川から東は暗渠あんきょになっていて、川が見えているのは隅田川から東3.5kmくらい。

しかも川の上を高速道路が通っていてなんとも薄暗い雰囲気ですが、時代小説なんかにはよく登場する川です。

竪川の橋と橋の名の道

その竪川に架けられた橋は、西側から一之橋、二之橋…と行って、六之橋まであったそうです。

五之橋、六之橋の場所は、初めは渡しがあり後に橋が架けられました。

なので江戸期には一ツ目通り、二ツ目通りという道もありました

「あった」と言いますか、今もあります。名前が違うだけで。

一之橋の一ツ目通りは今の「一の橋通り」

本所一ッ目一の橋

一之橋は今も架かっています。

回向院えこういんの裏辺りに。

橋の通っている道は、今は一の橋通りと呼ばれていて、あまり広い道ではありません。

本所一の橋通り

北は国技館の前の三叉路で国技館通りに吸収され、新大橋の交差点から南は、万年橋通りと名前を変えます。

二之橋の二ツ目通りは今の清澄通り

二之橋の道は、清澄きよすみ通りです。

竪川の二之橋と言えば「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵の行きつけの軍鶏しゃも鍋屋「五鉄」のあった場所。

二之橋も健在で、北西のたもとには鬼平犯科帳登場地を解説する高札が出ています。

二ツ目通りの清澄通り-二の橋鬼平犯科帳五鉄

今はお茶の老舗中田屋茶舗さんが営業しています。

本所二ツ目通り中田屋茶舗

三ツ目通りと四ツ目通り

三ツ目通りと四ツ目通りは、今もその名前で呼ばれている道路です。

三ツ目は、JR両国駅と錦糸町駅の間を南北に走る都道319号で、新大橋通りとの交差点に都営新宿線菊川駅があります。

三の橋

四ツ目は、錦糸町駅の東を三ツ目と平行に走る都道465号です。都営新宿線なら住吉駅の交差点を南北に走るのが四ツ目通り。

五之橋の五ツ目通りは今の明治通り

かつての五ツ目通りは、今の明治通りです。

周囲には「五の橋~~」「五之橋~~」と名前の付いた店舗などが多く、地元では今も五之橋で通っていることがうかがわれます。

※五の橋通りは、竪川と平行に走っている道で五ツ目通りとは別の道です。

↑すみません。これ完全に勘違いでした。五の橋通り=五ツ目通り=明治通りだそうです。

親切な読者さんが教えてくださいました。ありがとうございました。

橋は六之橋までありましたが六ツ目通りと呼ばれた通りはありません

六ツ目通りは、今の都道477…ではありません(笑)

ずっとこう思い違いしていたのですが、今の都道477をまたぐ格好でかかっていた橋は「新六の橋」でした。

読者の方からメールで教えていただいたのですが、六の橋のあったのは、今の都営大島九丁目アパートと東京都交通局大島車両検修場の間から城東病院の前にあたるところだそうです。

ここですと、南は小名木川までなんとか道がつながっていますが、北は城東病院につきあたってお終い。「~~通り」と呼ぶような道路ではないですね。

これも読者さんからのメールで分かりました。長らく間違ったこと書いてました。本当にすみません。

※現在は、新六之橋、六之橋ともに取り払われています。

六の橋と新六の橋

橋と通りを地図に書くとこうです

一つ目通りから六つ目

 

橋と橋の幅は等間隔ではなく、大川(隅田川)から離れるにしたがって広がっています。

これがそのまま江戸時代の人口密度を表現しているのでしょう。

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